突然だが、私のインターネット上における活動遍歴を振り返る。
大学1年、それは2001年の冬だった。
地方の男子校から上京し、華やかな大学生達の姿に辟易し、いつのまにか学校にも行かずひたすらWinMXの画面を眺めている引きこもりになってしまって居た。
毎日が暇。
家から出る用事は、当時やっていた家庭教師のアルバイトとサークルの飲み会程度しかない。
金は無い。暇だけが連綿と続いている。
暇だけど頭は冴えているから色々なことが脳裏に浮かび上がってくる。
当時はDTMで曲作りもやって居たから、自分の表現欲は高まるばかりだ。
そんな最中、自分のNECのPCにプリインストールされていたホームページ作成ソフトを使って、暇つぶしがてら自分のサイトをジオシティーズに立ち上げた。
それが自分のインターネット上における表現の第一歩だった。
何の気なしに、家族や自分の周りの友人にもホームページを開設したことを知らせていった。
だんだんと来訪者が増え、反響が得られることが堪らなく楽しかった。
当時の自分は文才もあると思っていたし、音楽も作って公開していたから、他の個人HPとは全く趣きの異なる個性的なwebサイトだと思っていた。
毎日、ホームページを更新するために生きていた。
人生は、ホームページのネタを探すためにあるものだと思っていた。
自分の個性の全てがそこにあり、アイデンティティだった。
やがてジオシティーズから引っ越して、自分の契約するプロバイダーのサーバーに移行した。
デザインやコーディングについても少しづつ勉強し、さらにホームページの制作に没頭していった。
気づけば自分は留年し、大学2年目に至ってはたったの8単位しか取得しなかった。
その時間、一体何をやっていたのか。
それは他ならぬ、WinMXと作曲とホームページ制作だったのである。
大学3年になり、ゼミに入ると様々なジャンルの友人ができた。
自分は少し変わった大学生活を送っていたから、周りも楽しんでくれたし、打ち解けるのは早かった。
そんな中でも、自分はホームページを更新し続けた。
当時は自身のサイトの他に、ライブドアブログも立ち上げて毎日3回くらい更新していた。
その頃、友人が話していたことで印象的だったのは、
「人は、一人の時間、自分自身と対話している」
という話だった。
まさに、当時の自分はゼミというコミュニティを得たけれど、あくまでも話し相手は自分=ブログだったのである。
そんな大学生活だったので、就職活動はめちゃくちゃ苦労した。
なんせ、自分自身としか会話してきていない5年間だったから、「自己分析」なんて言っても深みにハマりまくるのである。
面接でも、「とにかく自分はクリエイティブな働き方がしたい。自分は他の人と違う考え方ができる」なんてことを延々とアピールする。
その根拠も自信も無いんだけど、プライドだけはめちゃくちゃ高いから必ず面接会場で受付する時に「喫煙所はどこですか?」とか言ったり、終了後のアンケートにも真っ先に回答して会場を後にしたり。
時代は就職氷河期を超えて少し光が見え始めていた頃だったけど、それでも依然厳しい状況。
そんな偉そうな態度を取る大学生なんてどこも欲しがらない。
受ける企業はことごとくダメで、精神的にも参ってしまって、それでも諦めずに偉そうな態度を取りながら、わけのわからない自分勝手な妄想を面接官にぶつけて、大学4年は過ぎていった。
結果的に、唯一内定をもらうことができたのは12月。
ベンチャーのweb制作会社だった。
今振り返っても、ある意味凄いなと思うのは、12月まで途切れることなく就職活動をし続けたことだ。
当時、ゴールデンウィークを過ぎて決まっていなかったらかなりヤバい方で、スーツで学校に行く恥ずかしさなんてものがあった。
自分自身も、5月を過ぎて一通り落ちた後、大学院に行くか、留学するかなんて迷ったこともあった。
けど、そんな勇気もなかった。
留年していたので、そんな逃げの選択肢を言い出せなかったというのもある。
だから、みんなに隠れて、ひっそりと就職活動を続けていた。
でも、その時期なんて残っているのはブラック企業しかない。
だけどちょっと要領の悪い企業なんかが、秋口になって新たに求人を出す場合がある。
そんな感じで中小やベンチャーを中心に、5月以降も受け続けていた。
それでもそれでも、受からない。
これは相当ショックだったし、自分でも何が悪いのか全く分からなかった。
自分の人生をここまで否定されたのはこれが初めてだった。
話が脱線してしまったが、そんな訳で2006年、晴れてベンチャーのweb制作会社に入社することができた。
その会社は、雰囲気が本当に良く大好きだった。
毎晩のように飲みに行って、死ぬほど仕事して、プレゼンして勝って負けて。
この仕事は、天職だと思った。
今でもそうなのかもしれないけど、当時のweb業界は色々なジャンルの人がいて。
先月まで脱法ドラッグを売ってた人がフラッシャーやってたり、ビジュアル系が好き過ぎて趣味のサイトを作ってた延長線で独学でコーディングを学んでコーダーになっていたり。
大学で建築を選考していた人がwebデザインに惹かれてデザイナーやってたり。
そういう多様性を受け入れる風土が、とても魅力的だった。
でも、結果としてその会社も1年半で辞めてしまうことになる。
理由は、当時「ITドカタ」と言われていたほど下請けの扱いが酷く、プライドが耐えられなかったからだ。
上流工程に行きたい一心で、ブランドコンサルティングの会社に入社することになる。
個人HP・ライブドアブログを経て、mixiを挟み、この頃自分の独自ドメインをとったサイトを開設する。
大学時代から、やはり変わらずに延々とブログだけは更新を続けていた。
この個人サイトは、結果昨年、サーバーの更新をしなかった。
と言うよりは、更新期限を忘れてしまっていた。
それくらい自分の中で、希薄なものになってしまっていた。
かつては自分の全てだった、自分のwebサイト。
何故、段々と興味がフェードアウトしてしまったのか。
その理由は、ブランドコンサルティングの会社以降の社会人人生にも理由がある気がする。
2007年の冬に入社したブランドコンサルティング会社は、それはそれで充実した仕事だった。
大手広告代理店を相手に、なかなか体験できない規模の大きな仕事に若干25歳で関わるのである。
しかも、自分がメインとなって企画書を作り、プレゼンし、競合に勝つ。
これは相当気持ちが良いものだった。
しかし、2009年にリーマンショックが起こる。
広告業界は一気に冷え込み、会社の存続が危ぶまれた。
当時、会社に行っても仕事は無く、一日中yahooを見て過ごす毎日。
給料も上がらず、毎日菓子パンで生活していた。
上司は会社に出社すらしていない。荒みきっていた。
時期を同じくして、レーシックの手術をした。
当時、レーシックの仕事をしていて案件がトラブり、お詫びも兼ねて受けることにしたのだ。
視力は非常に良くなり、それは今でも満足しているんだけど、一方で目の疲れが酷い。
ちょっと裸眼でパソコンを見ると、目の奥に激痛が走り、それが酷くなると目眩がするようになった。
多分、この頃から、あまり物事をちゃんと見なくなった。
集中力が続かず、すぐにどうでも良い気分になってしまう。
当時考えすぎる傾向が強かった自分は、むしろ良かったように思えた。
いつまでもそんな状況にい続ける訳には行かず、細々と転職活動を続けていた中、2009年にとあるメーカーに運良く内定を頂けた。
今思えば、この会社こそ、自分のファーストカンパニーのような存在だった。
クリエイティブの畑で過ごしてきた自分に、社会人とは何かを一から教えてくれた。
恥ずかしい話、電話の受け答えからシャツにはアイロンをかけるべきだということや、敬語の使い方や上司と飲みに行ったらお礼を言うことや・・・
全てが自分にとってはカルチャーショックだった。
仕事自体もそうだった。
マーケティング職だったが、人手が足りない繁忙期には売り場に立って接客もするし、倉庫で荷下ろしもするし、棚卸しもする。
その時に、自分の中で何かが弾けた。
自分が必死に守ってきた「自分」は、社会的にはあまり意味が無いのだと。
「ものを作る仕事」がしたくて、自分にできるものづくりを標榜して働いてきたけど、自分でできるものには限界があって、それは社会的にあまり意味をなさない。
多分、この頃から自分を表現することに関心が無くなってきたのだと思う。
曲も作らなくなった。
ブログも更新しなくなった。
2012年に結婚して、さらに拍車がかかった。
自分は、自分以外の誰かと会話するようになっていた。
その意味で、自分の唯一の会話する相手だったwebサイトは意味をなさなくなっていた。
自分のweb上における自己表現は冷めきっていたかに見えるが
しかし、そんな中、実はこの3、4年ほど、新しいブログを立ち上げては更新しなくなるというサイクルを続けている。
それは、自分がブログをめちゃくちゃ更新していた頃、やっぱり頭が冴えていたと思うからだ。
ブログは一人語りの捌け口でもあり、思考の整理場所でもあった。
今は、後者の意味で、ブログを書きたいと思うのだ。
しかし、モチベーションが保てない。
自己表現というモチベーションが無い今、ブログを書く理由はむしろ自己啓発的な理由だ。
それでもいい。
またこのブログも消えるかもしれない。
それでも何か書き続けることやアウトプットすることに意味を感じるのであれば、やってみればいい。
誰も見ていないだろうから、割と恥ずかしいことも含めてここに書く。
という意思表明のエントリーでした。