先週末、久々に体調が悪かった。
おそらく、フェスで体を酷使した後、そのまま仕事に復帰したことや、連日の飲み会などが祟ったのだろう。
低血糖症の激しい症状が襲い掛かってきて、めまいと吐き気と眠気が酷かった。
同僚にも「疲れてませんか?」と言われるくらい。
自分でも、さすがに無理してたんだろうなと思う。
それでも金曜夜は飲みに出かけ、飲んだら飲んだで体調が回復するという。
フェスに行って、感動もしたし大量の汗もかいてリフレッシュしたんだけど、でも日常はあるわけで。
仕事の悩みは尽きないし、それがきっかけで漠然とした不安が常に自分を取り巻いている。
こういう状況って非常に良くないんだけど、じゃあそれをスッキリさせるには、自分が納得行くまで仕事するしかないというジレンマもある。
仕事に集中している時は気持ちが良いし、何か資料などできれば達成感もある。
僕は結局、人間がいきいきと生活するためには「仕事」が必要なんだと思う。
うちの婆ちゃんは、僕が小さい頃に過剰なまでに食事を作り、掃除をし、家事をしていた。
爺ちゃんも、僕に過剰なまで勉強を教えていた。
二人とも、僕ら子どもが大きくなって、育児から退いた途端、老けてしまったように思う。
うちの母さんもそう。孫の世話と犬の世話が楽しくてしょうがない。
「束縛とは最大の自由である」とは誰が言ったか分からないが、結局「自由」は「自由」の中に居れば見つけることができない。
暗闇があるから光を見つけることが出来るように、束縛が無ければ自由を見つけることはできない。
僕が例えば明日から仕事を辞めて、お金ももらえて自由になったとする。
それはそれで楽しいかもしれないが、生きている実感は乏しくなるのかもしれない。
話が少し逸れてしまったが、仕事をする中でしか、自由は見つけられない気もする。
問題は、その「仕事」の中身だ。
竹原ピストルの歌に次のような歌詞がある。
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仕事を終えたあなたに向けて ぼくは仕事を始める
今日一日の幕が下りて ステージの幕が下がる
喜びが歌を呼び 歌が歌う喜びを呼ぶ
あなたがいてくれる限り ぼくは限りない
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自分の仕事は誰かの役に立っていて、誰かの仕事が自分を支えている。
その上で、自分の仕事を求めている人が居る限りは、自分が仕事をする意味がある。
胸張って仕事をしていこう。
僕は僕の職務を全うすることを、周りは求めているのだから。