令和

もうすぐ新しい元号になる。

年越しと同じようなムードになっているんだけど、正直、毎回思うのは、別に年号が・元号が変わっても毎日は変わらないということ。

変わった瞬間に、自分にも変化が起きて急に勉強熱心になるとか。

そんなのあり得ない。

 

けど、やっぱり気にしてしまうのが自分。

浮かれてスクランブル交差点に行ったりまではしないけど、でも年越し・元号越しは立ち合いたい人。

嫁はすでに寝てしまってるけど、一応僕は立ち合いたい。

 

時代の変化で僕が如実に感じたのは、1995年・1996年くらいだったと思う。

当時は多感な時期だったし、見るもの・聞くもの全てが新しかった。

でも、それ以降、すごく時代が動いた実感は無いまま、今に来ている。

多分、僕が思うに、あの時のような大きな変化は、今後ないだろうと思う。自分にとっては。

 

自分も感受性が鈍くなり、アンテナも狭くなり、行動力も無くなった。

だから、あの頃のような衝撃はこれからもないだろう。

そんなことを思うと、急に悲しくなってきた。

 

けど、人によっては、過ごした時代を、経験した変化を愛おしく思いつづける人もいる。

昔、小学生の頃とかに、時代がそこで止まってしまってる大人を見てなんだかかわいそうな気分になってたけど。

んで、その大人が若い頃の話とかして、いまだに自分がそんなに時代遅れになってないそぶりなんかも見せたりして。

そんな大人はサブいと思ってたんだけど。

多分自分は、そんな大人になってるんだと思う。

今だに、自分が昔聴いた音楽や文化を愛でている。

 

平成は、僕だ。

と、いう人は多いだろう。というかほぼ皆そう思っているに違いない。(よほどの年寄りや子ども以外は)

だから、平成という時代の終わりを悲しむのだと思う。

 

嗚呼、ここまで書いてきて、平成が終わるのだと実感したら急に寂しくなってきたな。

 

でもね、新しいことをするしかないと思う。

今を面白く生きるためには、新しいことをするしかない。

 

僕はずっと、globeのsweet painという曲の一節

「いつの頃か好きなだけじゃ、物事が前に行かない」

というのを聞き間違えて

「いつの頃、が好きなだけじゃ、物事が前に行かない」

と勘違いしていて。

要は、昔に浸っているだけじゃ新しいこともできない、ということだと勘違いしてたんですが。

今となっては、この歌詞のまま勘違いしておこうと思ってる。

 

新しさって、なんだろう。

それは他己評価じゃなくて、自己評価であるべきだと思う。

僕にとって、新しいことをやり続けるんだ。

 

それが、令和の時代のモットーだ。